消費者金融と銀行
09« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.»11

【 最新記事と感動映像 】


  ●●● 皆さまにお知らせ ●●●

いつもいつもご訪問ありがとうございます!
更新再開模索しております!お待ちくださいね。
どうかこれからもよろしくお願い致します(^^)
皆さまには感謝。感謝です。


  ●●● 最新記事 ●●●

【 全記事一覧 】

  ●●● ~忘れられない名言~ 感動映像 ●●●

あなたさえも知らない、本当の自分と未来に出会うために、
時に雨に打たれながら、時に星空を見上げながら、歩いていこう・・・
そんなあなたを見て、必ずその後について来る人がいるから。
その後に、誰も知らなかった新しい道ができているから。



■ これまでの「名言感動映像」はこちらです。
■ 管理人の仙台での「東日本大震災」の体験記はこちらです。
■ ブログ『はっぱの笑子らいふ(はっぱのえこらいふ)』さんの
  震災や今後の未来に対する取り組みです。クリック!↓ 心ひとつに キャンドルナイト

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

カテゴリ: スポンサー広告

cm: --
tb: --   

敵に向かって逃げろ! 


a0777_000038_m_convert_20110227231713.jpg



「 老武士のため、
   伊吹山の大山を越え難し。
    たとえ討たれるといえども、
     敵に向かって死すべしと思う 」


                     島津 義弘

■島津義弘:薩摩国の戦国大名。九州一の猛将。島津氏、第17代目当主。
      兄義久とともに各地を転戦、特に武功において島津氏勢力拡大に
      大きく貢献した。関ヶ原の戦いでは、前代未聞の撤退戦を実行。
      諸大名に畏敬された。




慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こします。
関ヶ原の戦いの発端です。


島津義弘は徳川家康の要請を受け、京都の伏見城に孤軍籠城している、
東軍(徳川軍)、鳥居元忠の援軍として、1000名の軍勢で駆けつけます。

しかし、何の連絡トラブルか、
連絡を受けていないとして、入城を拒否されてしまいます。

その間の出来事は、諸説あれ、
島津義弘軍は、西軍に味方することになります。


関ヶ原に布陣すると、
数時間後、戦況は西軍の裏切りが発端となり、劣勢へと追い込まれます。

そのうち、西軍は総崩れの様相を呈してきます。

自軍の周りにいた西軍各将が崩れていくと、
島津隊は退路を遮断され、敵中に孤立することになってしまいます。

この時、島津義弘は甥の島津豊久の進言もあって、
その進退を決意することになります。


「 老武士のため、 伊吹山の大山を越え難し。
  たとえ討たれるといえども、 敵に向かって死すべしと思う 」



島津義弘は、前代未聞の撤退戦に挑みます。

敵に背を向けて撤退するのではなく、
前線だけで数万、総勢二十万を超える軍勢の中央を突破し、
撤退する作戦に出るのです!


わずか1000名の軍勢は徳川軍の中央を果敢な勢いで進み始めます。
この時の陣形、戦法は「捨てがまり」と言われ、
自軍の犠牲を前提にした、壮絶な陣形を取ります。

東軍は島津義弘の信じられない行動に一瞬あっけにとられます。

しかし、すぐに前衛いた勇猛で知られた福島正則隊と衝突します。

しかし、

その死を覚悟しながらも撤退する意思を持った、あまりにすさまじい戦いぶりに、
戦う愚かさをを悟った福島正則は、家臣に戦うことを禁じたと言われています。


その後、島津義弘本人は無事に薩摩本国に帰還します。
1000人いた島津軍は80人ほどになってしまっていたと伝えられています。

その果敢な戦いぶりは、すぐに全国に轟きます。


関ヶ原の戦いの戦後処理において、
島津家は、領地を安堵されました。

色々と理由はありますが、
島津義弘や軍備が健在の、島津家を敵に回すことを嫌った、
徳川家康の最終的な判断のようです。

その判断の結果、徳川家は250年後に、
島津家(薩摩藩)にその存在を脅かされることになります。



なにか、目前に大きな窮地が訪れた時、
大きな判断を迫られた時、

目前の課題、難題を回避することも英断と言えるでしょう。

ですが、

敵に背を向けて逃げることが、
最善と言えるとは限らないこともあります。

あなたが逃げていく方角には、
あなたが後悔し、誰かが悲しむことはありませんか?

あなたが逃げていく方角には、
本当に未来がありますか?

逃げていく方向には、
もっと愛することができる何かがありますか?


人生にはそんな判断を迫られる時があります。
それは次の人生を生みだしていく、大きな分かれ道でもあります。

どうせ逃げるなら、勇気を持って、
未来と誇りのある方向へ決死の覚悟で逃げましょう。
敵のど真ん中を逃げてやりましょう。


最も困難で、誰も進まない方向に、
最も幸運な未開の道が続くこともあるでしょう。


目前に迫る難題、窮地にあえて立ち向かうことで、
撤退を成功させ、島津家を守った島津義弘。

その行動は、250年の時を超えて、薩摩藩の歴史・・・
また結果として日本の歴史に影響を与えたと言っても過言ではないでしょう。

ちょっと言いすぎでしょうか^^)
 



★ブログランキングに参加しています★

励みになります! 
クリックしていただければ幸いです。↓


    >>人気ブログランキングへ<<
    >>にほんブログ村ランキングへ<<





【 トップページへ戻ります 】

スポンサーサイト

カテゴリ: 島津義弘

テーマ: 歴史上の人物 - ジャンル: 学問・文化・芸術

« ふたたび始まる、ドラマのために  |  不思議な体験・・・こんな経験ありますか? 信じられますか? »

この記事に対するコメント

ワクワクしました。

今晩は。

読んでいてとてもワクワクしました。
細川ガラシャ夫人に関する本を読んだときに、戦国時代って、なかなか興味深いなと思ったのですが、今回のこの島津義弘の話もいいですね。
こんど、図書館で島津義弘に関する本を探してみます。

敵に向かって逃げていく、凡人には考え及ばないです。

>どうせ逃げるなら、勇気を持って、
 未来と誇りのある方向へ決死の覚悟で逃げましょう。
 敵のど真ん中を逃げてやりましょう。

 最も困難で、誰も進まない方向に、
 最も幸運な未開の道が続くこともあるでしょう。

この言葉も、心に響きました。

ありがとうございました。



愛希穂 #- | URL
2011/02/28 21:17 * 編集 *

Re: ワクワクしました。

愛希穂さん、いつも、コメントありがとうございますね。
とてもうれしく光栄です。

> 読んでいてとてもワクワクしました。
> 細川ガラシャ夫人に関する本を読んだときに、戦国時代って、なかなか興味深いなと思ったのですが、今回のこの島津義弘の話もいいですね。
> こんど、図書館で島津義弘に関する本を探してみます。

戦国時代の逸話には、結構感動するお話し、名言が多くあります。
変化の多い厳しい時代だからこそでしょうか?

ですが、愛希穂さんは本当に本がお好きですねー。
尊敬します。

こう見えても、結構仕事が忙しく、
読書する時間があまり取れないのですが、
私も愛希穂さんを見習いたいと思います^^;

ありがとうございました。

言蔵(ゲンゾウ) #- | URL
2011/03/01 22:27 * 編集 *

壮絶なる撤退戦

こんばんは。

戦国繋がりで・・・(笑)

薩摩の兵は勇敢で「捨てがまり」の戦法を用いても逃げ出さずに死して大将を逃がしました。
九州の方とお会いすると、こういう男らしさを感じる事がよくあり、
長野県人の私とは違った印象を受けて好感を持ちます。^^

個人的な話になって恐縮ですが・・・
「義理深さ」「勇気」で仕事を助けて貰った方が鹿児島出身の方でして、
年配の寡黙で侠気溢れる方でした。
他の人曰く、「あの人は、自分の認めた人にしか尽くさない男らしい人だ」
「瓠洲さんは認められたんだよ」と言われて恐縮したことがあります。
私の頼りなさや勇気の無さをフォローして下さったのだと思います。
その職場を去りましたが、去る際に「また一緒に働きたい」とお互いに言っていました。

それ以来、九州男児に対するイメージがかなり上がりました。^^

島津義弘公ですが、祖父に当たる忠良公の言葉によれば、
「総領の義久、武勇の義弘、智謀の歳久、兵法の家久」と言う位に、
勇敢な人物ですから、義弘公でなければ、あの作戦は実行しないでしょうし、
この4兄弟の誰が大将だったかで、あの時にとった戦術は違うと思います。
そう考えると、色々と想像が膨らみますね…。

>その行動は、250年の時を超えて、薩摩藩の歴史・・・
>また結果として日本の歴史に影響を与えたと言っても過言ではないでしょう。

私も薩摩藩の幕末期に於ける役割は、戦国時代の島津一族の持つインパクトの影響は大きいと思います。
倒幕の中心となったのは長州からですが、実質の武力を誇ったのは薩摩藩だと思いますし。

長い目で見て、徳川家康が島津を残したのはプラスではなかったのだろうかと…
薩摩は徳川幕府を倒幕はしました。
ですが、倒幕が成っていなかったら、徳川慶喜は海外の兵力に屈して、
日本国の敗北の将として語り継がれ、
最後の瞬間は「大政奉還の名君」とは真逆の汚名を徳川家が
背負っていた可能性があると思うのです。
だから、支配する場合でも、完全に骨抜きにしてしまっては駄目で、
力のある者をある程度残しておかないと、全体にとってのマイナスになることもある例じゃないかと思います。

熱くなってしまってすみません。
最近、九州LOVEなもので…(笑)

適当に読み流して下さいませ。

儒侠の瓠洲 #- | URL
2011/03/06 23:31 * 編集 *

Re: 壮絶なる撤退戦

いつも、コメントご訪問ありがとうございます^^)

> 個人的な話になって恐縮ですが・・・
> 「義理深さ」「勇気」で仕事を助けて貰った方が鹿児島出身の方でして、
> 年配の寡黙で侠気溢れる方でした。
> 他の人曰く、「あの人は、自分の認めた人にしか尽くさない男らしい人だ」
> 「瓠洲さんは認められたんだよ」と言われて恐縮したことがあります。
> 私の頼りなさや勇気の無さをフォローして下さったのだと思います。
> その職場を去りましたが、去る際に「また一緒に働きたい」とお互いに言っていました。
>
> それ以来、九州男児に対するイメージがかなり上がりました。^^

素晴らしい、実体験・・・。さすが薩摩隼人!
感動しました。鹿児島県の方の誇りですね。


> 長い目で見て、徳川家康が島津を残したのはプラスではなかったのだろうかと…

さすがですね、そうかもしれませんね。
コメントを読んで、勉強しました。

こんな戦国や幕末の歴史に思いを馳せると、
時間の経つのも忘れてしまいます。

ありがとうございました。

言蔵(ゲンゾウ) #- | URL
2011/03/07 21:27 * 編集 *

コメントの投稿お待ちしています!

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://genzounokotoba.blog76.fc2.com/tb.php/46-2ff274d5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。