消費者金融と銀行
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  ●●● ~忘れられない名言~ 感動映像 ●●●

あなたさえも知らない、本当の自分と未来に出会うために、
時に雨に打たれながら、時に星空を見上げながら、歩いていこう・・・
そんなあなたを見て、必ずその後について来る人がいるから。
その後に、誰も知らなかった新しい道ができているから。



■ これまでの「名言感動映像」はこちらです。
■ 管理人の仙台での「東日本大震災」の体験記はこちらです。
■ ブログ『はっぱの笑子らいふ(はっぱのえこらいふ)』さんの
  震災や今後の未来に対する取り組みです。クリック!↓ 心ひとつに キャンドルナイト

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仙台の言蔵はなんとか無事ですが、しかし・・・ 


当ブログに来てくださる読者のみなさん、
ブログ友達、足とも、ブロとものみなさんより、

「言蔵さん、大丈夫ですか?!」
「がんばれ!言蔵」
「無事ですか?心配しています」


との多くのメッセージをいただいています。

瓠洲さん、ちぃさん、別府葉子さん、kyoさん・・・

それ以外にも温かいお言葉と励ましのメッセージ。
本当に本当に、ありがとうございます!!
言蔵は勇気と希望をいただきました!


やっと、電力、水道、携帯の電波が回復しました。
現在、自宅ではなく少し離れた実家に避難しています。
言蔵はなんとか無事ですが、

私のいる仙台市若林区も惨憺たる状況で、
死者、行方不明者は多数・・・

市内の普通の家庭でも食糧、ガソリン、灯油が
非常に手に入りにくい状況となっています。
避難所などはさらに深刻な食糧、物資不足です。
私は無事です、などと素直に喜べない状況です。

また、私の職場の老人福祉施設は、
ライフラインが断たれたまま・・・
食糧、水、薬品など救援物資なども届かず、緊急を要する状態です。


こうして、記事を投稿している今も余震で揺れています。

NHKは、この前代未聞の巨大地震を、
「東北関東大震災」と命名したそうです。


また、たった今、福島原発の核燃料棒が
溶け始めている(!)可能性との情報も入ってきています。
大変深刻な事態です。

現在、ネット環境が限られておりまして、
この記事も、携帯の電波を使用し投稿しています。
現在、いただいたメッセージ、コメント、
おひとりおひとりにお返事するのが難しい状態です。
申し訳ありません。

ですが、みなさんのありがたいお言葉、メッセージに
言蔵、勇気をいただいています。


明日には、なんとか
私が見た詳しい状況をお知らせしたいと思います。

多くの温かいメッセージ、本当にありがとうございます!



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カテゴリ: 私は無事ですが・・・

テーマ: 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~ - ジャンル: その他

東日本大震災が起こったあの日 【1】 


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「 さらに津波が来る恐れがあります!
  若林区役所まで津波が来ました。
  すぐに避難してください!
  できるだけ、できるだけ、
  西の方に早く逃げてください!  」


 

地震が起こったその日、私は近所を歩いていました。
気温が低く、横殴りに雪交じりの風が吹いていました。

新築中の新居の工事の様子を窺いに、
仮住まいの家から徒歩で向かっていた最中でした。

工事中の新居の前まで来ると、
それは突然やってきました。

「・・・・・・・?!!」

最初は小さな長い揺れが続き、
うねるような信じられない激震が襲ってきたのです。

それは立っていることができない、
経験したことのない大きな揺れでした。

大きな地鳴りと建物がきしむ無数の音・・・
目の前の電信柱が揺れ、悲鳴がどこからか聞こえてきました。

各家庭から、人が飛び出してきます。

目の前の家からは、赤ちゃんを必死に抱きしめた
若いお母さんが飛び出してきて、地面にうずくまります。

電信柱が折れて、倒れてくるのでは・・!

そんな恐怖を感じるほど、何度も強振します。

若いお母さんに

「大丈夫ですか!」

と声をかけるも、揺れが激しすぎて近寄れません。
赤ちゃんを抱いたお母さんは震えながら
「大丈夫」だとうなずいていました。

揺れがやっと収まってくると、
ハッと我に帰りました。

これは・・・大変な事態になってくる!!

揺れが収まって、すぐに携帯が使えなくなる前に、

「私は無事です。皆は無事?」

と親などにメール送信。
すぐに職場の上司にも同様に送りました。

すると、わずか数分で携帯が通信不能になりました。

仮住まいに戻ると、家の中は倒れてきたもので一杯。
割れたガラスが廊下に散乱していました。
壁が崩れて、落下しており、
通れなくなっている所もありました。

私はライフラインが寸断されることを想像し、
近くのコンビニエンスストアに車で向かいます。

「信号機がすべて消えている・・・」

各地の道路で車の渋滞が始まっていました。
交通整理をする者もおらず、
交差点は非常に危険な状態です。

コンビニに着くと、
既に、多くの方が、水や食料を買い求めるために、
レジに並んでいました。

コンビニの店内は割れた酒瓶の匂いが充満していて、
商品が無数に床に散乱していました。

かごいっぱいに商品を買い込むと、
車に乗り、状況を把握するために、
ワンセグ放送でテレビを付けて見ます。

「・・・・・・震度7!!?」

信じられない情報が次々と報道されていました。

再び、ハッと我に帰りました。

すぐに、職場に向かわなければ!

私の職場は特別養護老人ホームで、
130人の入居者と30人のデイサービス利用者がいました。

ライフラインを断たれると、
食糧などの備蓄も数日で尽きてしまい。
援助が無ければ、最悪の事態も考えられます。

道路は渋滞もあり、危険でしたが、
18キロほど離れていた職場に向かうことを決意。
家族、友人、同僚、施設利用者の無事を祈りつつ、
エンジンキーを回しました。

その時でした、

仙台市若林区役所の広報車が近寄ってきます。


「さらに津波が来る恐れがあります!
 若林区役所まで津波が来ました。
 すぐに避難してください!
 すぐに避難してください!
 できるだけ、西の方に早く逃げてください!」


「・・・・・・」

その広報車が言っていることにわかには信じられませんでしたが、
あの大地震の後の市の広報車の言葉です。

職場はちょうど西の方角にありました。

家に用意してあった災害用の避難用品と
毛布、水、着替えなどを車に急いで積み込み、
西の方に向かって行きました。

幸い、私自身は直接津波を見ることもなく、
直に被害を被ることもありませんでした。

しかし、

それから、長い長い混乱と苦境が待っていようとは・・・

その時はまだまだ、状況を楽観しており、
何も分かっていない無知な自分が、
ただただ西に向かって車を走らせていました。


次回に続きます。


 

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カテゴリ: 東日本大震災が起こったあの日、私は・・・

テーマ: 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~ - ジャンル: その他

東日本大震災が起こったあの日 【2】 


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「 津波が住宅や畑を飲み込んでいきます!
          大変危険な状況です! 」



津波の恐れがあること、
職場である老人福祉施設に向かうため、
私は西に向かいました。

しかし、道路は体験したことのない大渋滞。
無理もありません。
信号機は全て消え、交通整理をする者もありません。
無法地帯となった大きな交差点では、車がひしめきあい、
非難するため、その交差点を子供や老人も渡っていきます。

非常に危険極まりない状況です。

夜7時ころになると、辺りは真っ暗闇となり、
明りは車のライトだけとなりました。
より危険な状態です。


車窓からは、
二階部分がつぶれてしまった建物、
壁が全て崩れ落ちたアパートなど、
倒壊した建造物が所々に見られます。

暗闇の中どこへ向かうのか、
親に連れられ、泣き叫ぶ子供。

大きな荷物を持って、たった一人で走る若者。

何度も何度も携帯を必死で操作する女性。


町は情報もないまま、多くの人と車で混乱していました。

走行中は車載のワンセグテレビを見ていましたが、
信じられない情報が次々と入ってきます。

その時、私が実際見ていた映像です↓




「・・・・・・・・・・・・」

あまりの映像の凄まじさにこの世の出来事とは思えませんでした。

なんとか、18キロ離れた職場に着くと
すでに出発してから5時間が経過していました。

老人福祉施設は完全に漆黒の闇に包まれ、
広い駐車場に駆け付けた職員の車のライトだけが、
場違いのようにギラギラと闇を横切っています。

すぐに自分の部署に辿りつくと、
日中勤務の同僚たちが、全て残って対応に追われていました。
すでに、夜9時を回っていました。

施設は、電気、水道、ガス、通信、全ての機能が失われていました。

一部、職員の家族も避難して来ていて、
食堂として使われているホールに予備の布団を敷き、
肩を寄せ合っています。
明りは懐中電灯の明かりだけです。

同僚に状況を聞くと、幸いなことに利用者、勤務者にけが人はなく
建物に大きな損傷はなかったとのこと。
しかし、暖房が全く効かず、かなり冷え込んでいます。
廊下やホールにはわずかなストーブだけがほのかな光を放っていました。

私は、コンビニエンスストアでとっさに購入した、
食料とお茶などの飲料水を夜勤者に手渡しました。

しばらくすると、
主任が来て、嬉しそうに駆け寄ってきます。

「おお! 来てくれたんだ。ありがとう。」

皆、情報の面でも孤立しており、外で何が起きているか分からず、
目の前の高齢者のために飲まず食わずで必死ではたらいていました。

テレビもなく、通信手段も全て絶たれ、
私がテレビで見た映像のことを話すと、
皆言葉を失っていました。

その後、スタッフが集まって、今後のとりあえずの対策を立てます。
明日からの困難な状況のために、夜勤者を残し、
全てのスタッフが帰宅しました。


本当の困難は次の日から始まりました・・・。



ここで、産経新聞より記事を紹介します↓

「苦しいけど 負けないで! 名取市職員 S」。東日本大震災で大津波が押し寄せた宮城県名取市の市役所玄関ガラスにこんなメッセージが書かれた紙が張り付けてある。書いたのは名取市職員、西城卓哉さん(30)。津波で最愛の妻、由里子さん(28)が行方不明になり、8カ月の長男、直人くんを失った。自分と同じくかけがえのない家族を失った人たちは多い。それでも精いっぱい生きてほしい-。そんな思いを込めたという。

 3月11日。激しい揺れを感じた西城さんはすぐに、職場から由里子さんの携帯電話を鳴らした。一瞬つながったが声を聴けず、途切れた。すぐに市役所は地震で大混乱、職員としてさまざまな対応に追われ、気が付くと12日未明になっていた。ようやく自宅マンションへ戻ると、エレベーターは止まり、泥に足をとられた。部屋に入ると、2人の姿はなかった。近くの由美子さんの実家へ向かった。

 毛布、食料、紙おむつ…。寒さと飢えをしのげるよう紙袋に目一杯詰め込んで、必死に歩いた。「あとは、2人を見つけるだけ」。しかし、周辺に原形をとどめる家はほどんどなく、がれきの山だ。ひょっとしたら、がれきの下敷きになっているかも知れない…。由美子さんの実家を目指しながら、一晩中捜した。しかし、実家も建物はなくなっていた。

 翌日夜、由里子さんの母親とようやく出会えた。自衛隊のヘリコプターに救出されたのだという。憔悴しきった義母は「2人とも流された。どこにも姿がないの…」という。絶望的な気持ちになったが、わずかな望みを信じ捜索を続けた。

 しかし、直人くんとみられる遺体が安置所にあると聞き、15日夜、身元を確認した。「肌着も服もよだれかけも、妻が好んで着せる組み合わせだった」。安置所で死亡届を出すと居合わせた同僚職員が泣き崩れた。

 職場の後輩だった由里子さんと出会ったのは3年前。「誠実で信頼できる人」と一目で直感し、6月14日の由里子さんの誕生日にプロポーズした。昨年7月には直人くんが生まれた。幸せだった。デジタルカメラには、3人で迎えた最初のクリスマスの写真が保存してある。今年2月に撮影した1枚は3人で写った最後の写真。眺めていると、さまざまな思い出があふれてくる。

 それでも西城さんはメッセージを書いて、市役所玄関ガラスに貼り付けた。

『 最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。

  いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう

  精一杯生きます。

  被災されたみなさん。

  苦しいけど

  負けないで!

                        名取市職員 S 』

                     3月17日 産経新聞記事より



死亡が確認された人数はすでに6900人以上。
被災地では、今も10000人以上が行方不明となっています。



次回に続きます。



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カテゴリ: 東日本大震災が起こったあの日、私は・・・

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東日本大震災が起こったあの日 【3】 


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「 暗すぎて今まで見たことないくらい
   星が綺麗だよ
    仙台のみんな、上を向くんだ 」


                    Twitterより



私の職場である特別養護老人ホームには、
被災した時、ライフラインが断たれた時のため、
食料と水、炊き出しをするための機材などが、
備蓄されていました。

近隣の住民が一部避難を求めてきた時のためにも、
準備をしていました。

しかし、

今回のこの地震は私たちの想像をはるかに超えていたのです。

食料も水もせいぜい3、4日分ほどしかありません。
ストーブに使用する灯油も多くは備蓄していません。

施設には、130人の利用者がいて、
働いているスタッフの食料、水も考えなくてはなりません。

ざっと150人以上の食料を提供していかなくてはならず、
その食料を外部からすぐに調達するのは、極めて困難でした。
また、どこからも救援物資が届きません。


施設では、まず食料をできるだけ長く持たせるために、
一日2食とし、水も生命を維持できるギリギリの摂取量で
提供していくことを選択しなければなりませんでした。

1食が小さな紙コップにわずかなお粥と
その上に非常食のおかずを載せたものです。

暖房も電気の明かりもなく、
皆、空腹と寒さ、不安に耐えていました。

施設利用者の中には、障害を抱えている方、
認知症の方も多くいます。

認知症の方の中には、
地震が起こってすぐに、あの大地震のことなど
すっかり忘れてしまっている方も多くいました。

そんな方の中には、

「なんでこれしかご飯を出さないの!どうなっているの!」
「どうして水がないの?」


と怒りだしたり、不穏になる利用者の方も
何人かいました。

私たち職員も、返す言葉に困ってしまいます。


3日も過ぎると、
ガソリン不足も深刻になってきます。

職員は9割以上、自家用車で通勤しています。
このままだと、少なくとも遠方の職員は出勤できなくなります。

しかし、

どこのガソリンスタンドも営業していません。
たまにスタンドが開くと、1キロ以上の車の列ができ、
12時間以上並んでわずか20リッターしか
手に入らない状況です。
ひどいと、何時間も並んで、「売り切れました」と言われ、
購入できない人もいます。

食料も同様で、
小さなスーパーには何時間も前から、
何百人も並んで、パン1個とバナナ数本しか
手に入らなかった、といった状態です。

真冬並みの寒さの中、
その異常な街の光景は、
よけいに住民の不安をあおっていきます。

明日の食料、水、燃料を手に入れるために、
皆できることは何でもしていきました。



沿岸部の被災地では、もっと過酷です。

逆さになった壊れた車から
穴を開けてガソリンを抜き出しました。

流され倒壊した家屋の中から、
泥だらけの食べ物を見つけ、
洗って皆の食料にしています。


そんな時、

電気の明かりが全くないある夜、
私はふと空を見上げました。
今まで空を見上げる心の余裕がなかったのですが、

天を仰いだとき・・・

満天の星が漆黒の闇の中、信じられないほど輝いていました。

天空の真ん中には、オリオン座が仙台を見下ろしていました。
何の明かりもない、真っ暗闇の仙台を頭上から
静かに、力強く見下ろしていました。
これほどキレイな星空は見たことがありません。


「 暗すぎて今まで見たことないくらい
   星がきれいだよ
    仙台のみんな、上を向くんだ 」

                    Twitterより



被災された多くの皆さん、
救援の手を差し伸べてくれた多くの皆さん、
共に上を向いて進んでいこう!

何があろうとも、進んでいくことでしか。
これからの人生は切り開いていけない。


ここで、日刊スポーツより記事を紹介します↓


黙って大阪におられへん! 大阪市内で移動型自転車修理店「新北島サイクル」を営む衛藤典雄さん(66)が19日、小型車で約16時間かけ、避難所となっている仙台市若林区の七郷小学校まで到着した。さっそく無料で自転車やバイクのパンク修理、車いすの修理を引き受け、被災者たちを元気づけた。

 いてもたってもいられなかった。大阪から徹夜で運転し、1人で仙台に駆けつけた。衛藤さんは、約1200人の被災者が身を寄せる七郷小学校に到着すると、車から修理道具を取り出し、通りがかる人々に次々と声をかけ始めた。

 「大阪からパンクの修理にきたで~。自転車おかしかったら、持っておいでや~。大阪やって皆のこと応援してるんやで~」。

 衛藤さんは18日に地元警察署で緊急車両の許可証をもらい、夜10時半に大阪市住之江区の自宅を出発。夜通しで北陸道を新潟まで北上。その後は一般道で山形を経由し、19日午後2時半に仙台に到着した。「家族は少し心配していたけど、テレビで報道を見ていて、助けにいかなきゃと思った。大阪を出てから一睡もしてないけど、大丈夫や」。

 ガス欠を心配し、高速道路ではサービスエリアを通るたびに給油を繰り返した。その数10回。食事もおにぎり2個だけで、ひたすら走り続けた。到着後、校内放送で修理車の到着が伝えられ、パンクした自転車を持った被災者が次々と姿を見せた。「夜も車で寝るから大丈夫。皆には迷惑はかけへんで」と笑った。

 衛藤さんは30年ほど前から、大阪で移動自転車修理業を営んできた。自身も阪神大震災の経験者。幸い、大きな被害はなかったが、その時は自転車のパンクで困っている人がいることを知らず、応援に駆けつけることができなかったことをずっと後悔していた。

 「今度同じようなことが起こったら、絶対に助けに行こうと思ってたんや。車いすも壊れていると聞いていたし、介護の人の疲れも限界にきているしな」。

 修理を終えて、被災者からお礼を言われると「将来、あの時大阪からあんなおっちゃん来てたなあって、思い出してくれたらそれでいいんや。みんな頑張るんやで」と、屈託のない笑顔を見せた。衛藤さんは若林区内の被災地を中心にして、今後も25日まで各避難所をできる限り回る。1人でも多くの人のために-。大阪のおっちゃんは真っ黒な手で、休むことなく無償で修理を続けていく。【福岡吉央】

                      3月20日 日刊スポーツ紙面より



私たちは、決して一人ではない。
皆が、一人一人ができることはなにか、
悩みながらも、間違えながらも常に行動していきたい。

みんな! 「大阪のおっちゃん」に続け!



次回に続きます。



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東日本大震災が起こったあの日 【4】 


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「 遺体を確かめなければ、
   心の整理が付かない。
    母が亡くなったということが
      現実とは、信じられない 」




東北関東大震災、大津波の被害から5,6日も過ぎると、
徐々にライフラインが回復して来ます。
いちばん最初に回復してきたのが、電気です。
その次に、水道が徐々に回復してきました。

しかし、ガスの供給はストップしたまま、
ガソリン、灯油の入手が困難な状況が続きます。

街のスーパーや個人商店も、
不定期ではあるものの、
時間限定で開店する様子が見られてきました。

老人福祉施設にも、自治体から、
また地域住民から、救援物資をいただき、
あるいは、独自に調達が可能となってきました。

しかし、それは被害の比較的少ない地域での話。

沿岸部の街は跡かたもなく、
住んでいる街、ふる里が瓦礫と泥に覆われた
荒野に姿を変えていました。

私の職場でも、
5,6日経っても、家族と連絡が付かない、
行方が分からない。

そんな状態で、痛みを抱えながら、
目の前の高齢者のために懸命に働く姿が、
いたたまれなく、かける言葉も難しい状況でした。


同僚のある若い女性職員は、母が未だに行方不明・・・。

津波があ襲ったその時、
宮城県のある沿岸部の町を車で移動していたことは突き止めました。

彼女の父親が、すぐにその町へ向かい、
避難所を回り、聞き取りをして懸命に捜索しましたが、
その足取りはつかめません。

ただ見つかったのが、
無残にも朽ち果てた、彼女の母親が乗っていた車だけでした。

中には、母親の姿はなく、
津波が襲ったその時、何が起こったのか・・・
想像だけが、彼女の心を締め付けます。



私の知り合いの解体業者の方が、
緊急援助部隊の一員として、
被害の甚大な地域で働いています。

その方が曰く、

「原子爆弾が落ちたのと同じ・・・、地獄を見てきました」

暗い表情で、語ってきました。

瓦礫や壊れかけた家屋、建造物を撤去するのが彼の役目なのですが、
撤去を進めていく内に、
偶然、変わり果てた遺体を発見してしまうそうです。
ひどいと、その原型をとどめていないこともあるそうです。

その惨状は、現地にいるにも関わらず、
私の想像をはるかに超えていました。


ある、援助活動の様子です↓





この瓦礫の中から、行方不明者を探すことは容易ではありません。

そして、


未だにその瓦礫の下で、
見つけてくれる家族を待って、
眠ったままの大切な人々が数多くいることを知りました。


それでも私の同僚である彼女は、
今日、他の家族とともに現地に向かっていきました。

私は彼女にどう声をかけていいのか迷いましたが、

「どこかの避難所にいて、連絡が取れないだけかもしれない」

そう声をかけました。

彼女は、

「遺体を確かめなければ、心の整理が付かない。
 母が亡くなったということが現実とは、信じられない。
 遺体もなく、遺品もない状態では、とても母を供養できません。
 なんでもいい、せめて、母の形見になるものがほしい・・・。」


彼女は目に涙を浮かべて、ある覚悟を持って現地に向かっていきました。


生き残った私たちは、
生き残った意味、役割を噛みしめて生きていきたい。

生きようとして、生きていけなかった、
多くの愛する人たちの聞こえない声に耳を澄ませたい。




地震による混乱は留まることを知りません。

放射性物質、電力問題、地域の孤立、食料、水、ガソリン不足、メンタルケア・・・

ささやかなことでも、私たちにできることをしていきたい。


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次回に続きます。



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テーマ: 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~ - ジャンル: その他

東日本大震災が起こったあの日 【5】 


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「 地球最悪の地震が
  世界で一番準備され訓練された国を襲った。
  その力や政府が試される。犠牲は出たが、
  他の国ではこんなに正しい行動はとれないだろう。
  日本人は文化的に感情を抑制する力がある。   」


                   BBCの報道より



現在も仙台市では、毎日、自衛隊や救助、援助隊のの車両が通り、
ヘリコプターが上空を休むことなく行き来しています。

今回の大震災では、苦しく悲しい出来事が数多くの人々を襲いました。
その影響は、東北に留まらず、関東にまで大きな影響を及ぼしています。

これはもはや、
日本の運命を左右する事態と言っても言い過ぎではないと思われます。

そしていま、日本人ひとりひとりが少しづつ大切なものに気付き、
人それぞれが、その人にしか感じられない
ショックや悲しみ、感動を感じています。

東北関東大震災を通じて、
悲しく、心を締め付けられる報道、記事が多くある中、
同時に私は、「日本人の素晴らしさ」を感じずにはいられませんでした。

以下は、Twitterからの引用です。

これは多くの日本人の心の温かさ、見えない絆、
日本人の無心の行動の記録でもあります。



【外国人から見た日本人】

外国人から見た地震災害の反応。物が散乱しているスーパーで、
落ちているものを律儀に拾い、
そして列に黙って並んでお金を払って買い物をする。
運転再開した電車で混んでるのに妊婦に席を譲るお年寄り。
この光景を見て外国人は絶句したようだ。本当だろう、この話。すごいよ日本。


【パン屋】

昨日の夜中、大学から徒歩で帰宅する道すがら、
とっくに閉店したパン屋のおばちゃんが無料でパン配給していた。
こんな喧噪のなかでも自分にできること見つけて実践している人に感動。
心温まった。東京も捨てたもんじゃないな。


【ドイツ人の友達】

ドイツ人の友達が地震が起きた時に渋谷に居て、
パニックになっていた所を日本人に助けてもらったらしく、
その時の毅然とした日本人の態度や足並み乱さずに店の外に出てやるべきことを
淡々とこなす姿にひどく感動し、まるでアーミーのようだったと言っていた。


【ローマから】

ローマにいる友達からメール。ローマの人々はニュースを見ながら
このような状況でも冷静に対処する日本人に感動し、
尊敬の念を覚えながら、非常に心配しているとのことです。


【御殿場で】

実際日本すごいよ。昨日信号が一カ所も機能していない御殿場市でも
お互いにドライバー同士譲り合ってたし、
地元のおじいちゃんおばあちゃんが手信号やってくれてたりで、
混乱もなく本当感動した。
9時間運転してたけど
前車を煽るようなドライバーはもちろんいなかったし、みんな譲り合い精神。


【日本ってすごい】

日本って凄い。官僚も民間も、皆で助けようとしてる。
トラックの運転手も有志で物資運んでるらしいし、
東北の交通整備をヤクザさんがやってるという話も聞いた。
最近、日本に対して誇りを持てないことが続いていたけれど、そんなことない。
日本は凄い国だ。素直に感動してる。日本国の皆さん頑張ろう!


【ディズニーランドでの出来事】

ディズニーランドでは、ショップのお菓子なども配給された。
ちょっと派手目な女子高生たちが
必要以上にたくさんもらってて「何だ?」って一瞬思ったけど、
その後その子たちが、避難所の子供たちにお菓子を配っていたところ見て感動。
子供連れは動けない状況だったから、本当にありがたい心配りだった


【段ボールに感動】

ホームで待ちくたびれていたら、
ホームレスの人達が寒いから敷けって段ボールをくれた。
いつも私達は横目で流してるのに。あたたかいです。


私が実際、体験してきたことの中では・・・、


震災があって3,4日した時、
ある生協の店員が、

「この灯油を皆さんで使ってください!
 無料です!
 これは私の独断です。首になるかもしれませんが。
 どうぞ使ってください。」


と言って、燃料が全くなくなった人々に
生協に備蓄されていた灯油を配給していました。

その後の彼が心配ですが、
勇気ある、独断です。


私の職場である老人福祉施設の食料が少なくなり、
危機的な状態に陥った時、
私はやっととれた休日に、たまたま生協の
食材搬送のためのトラックを見つけ、
食料はありませんか、と声をかけ事情を話しました。

すると、

「そうですか・・・これを持っていってください! どうぞ」

と笑顔で、冷凍食品数十食分、野菜、果物などを多量に
無償でいただいたのです。


感動し、言葉もありません。
私にとって、その御恩は生涯忘れられません。


ある時は・・・、

ある日、私が一人で家にいると、
3人の小学生が突然たずねてきました。

その一人が、

「安否確認のため、皆さんの家を回って、
 お菓子を配っています。
 大丈夫でしたか?」


と言っています。
左手には、たった一袋のかりんとうを持ち、
小さい右手には、かりんとうを2本持っています。
雪まじりの冷たい風の中、家の玄関の前に立っていたのです。

食料が不足している中、たった一袋のかりんとうを持ち、
小学生が、自分たちで食べることもせず、
一人暮らしや高齢者のために町内を回っているかと思うと、
感極まって涙があふれてきました。


私は、逆に自分の家にあるキャンディーとスナック菓子を渡し、

「気をつけて、がんばってね!」

と声をかけて別れました。


小学生でさえ、自分にできることを実行している!

自分にできることはなにか?
そう強く自分に問い正さざるを得ない体験でした。


このほかにも、命を落とし外国人を救った日本人、
全く知らない他人を命がけで救った日本人、
より困っている人のことを配慮して行動している日本人。

様々な感動的なエピソードを聞いて、見て、体験してきました。


私たちは、自分でさえ知らない凄い力を持ち、
今この時、日本中、世界中のどこかで、
誰かが命がけで闘っています。

この日本人の力、心、勇気、行動力があれば、
時間がかかっても、決して立ち止まらない。
時に振り返ることがあっても、後戻りはしない。
そう信じています。



PS:ウチの飼い犬は、小学生が持ってきたかりんとうめがけて、
   何度もアタックしていました。
   大型犬なので、小学生はかなりおびえていました。
   ごめんね、小学生よ、不謹慎犬で・・・。
   この場を借りて、謝罪します(汗)



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カテゴリ: 東日本大震災が起こったあの日、私は・・・

テーマ: 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~ - ジャンル: その他

東日本大震災が起こったあの日 【6】 


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「 私はまだ何度も見て泣く元気がある。
   だからまだ何度でも心動かす元気があるなら、
        精一杯支援しようと思ったのです。」


        『LEAF PALLET』 管理人:ミリわん様のブログより



今回の東日本大震災(東北関東大震災)が、
生命、人生、生活、エネルギー問題、経済、世界情勢、
今後の日本の在り方に
大きな衝撃と課題を投げかけました。

ですが、

多くの日本人がその苦境に際して、
普段は見せることない信じられない力も見せ始めています。


私のブログにも、
大切なブログ友達、当ブログの記事を紹介して下さった方々、
見て下さっている読者の方から、
多くのコメント、メッセージをいただいています。
本当に、本当にありがとうございます。

その熱い思い、深い応援メッセージの一部を
感謝の意味も込めて、ご紹介いたします。



私の大切な友人、
『人間学を活学する為の名著選blog』の管理人である、
儒侠の瓠洲(じゅきょうのかくしゅう)さんから、
震災直後すぐにメールをいくつかいただきました。

その内の、あるメールの全文です。


「失いに失い尽くし、痛めつけられるだけ痛めつけられ、
 残されたのは体ひとつ。
 心は空虚で、先の見通しなど考えられない心境。

 皆が、立ち直れる程強くはありません。

 今は空虚かもしれません。
 だから、空虚を受け入れるしかないでしょう。
 内より元気がみなぎるには時間が掛かるのです。
 それが普通の人間の反応ですよ。

 明かにマイナスの精神状態です。
 ただ、マイナスをプラスと思い込むことは、
 精神的に無理がくると思います。

 被災した心に必要なのは自己啓発本の言葉ではないと私は思います。
 急に元気になろうとしなくても良いのです。
 今は虚無でも、空虚でも良いのです。
 あなたが失った物の大きさ、大切さを受け止めてあげてください。
 その感覚は、いつまでもあなたの隣には居たりしません。

 あなたがその空虚を味わい尽くし、大切な物の有り難さを受け入れて、
 自分の力で立ち上がれるようになったら、歩き出そうではありませんか。

 みんなあなたを急かしたりしません。
 みんなあなたを見守っています。
 みんなあなたが立ち直れると信じています。
 みんな祈っています。

 あなたが失った物と同じだけ、みんなはあなたを大切に思っているのです。」



私は本当に嬉しく、感動したのですが、
震災で命が助かり、幸運に恵まれた私よりも、

多くの大切な物を失った方々に必要な、
大切で素晴らしい言葉、メッセージだと思うのです。

また、

私のある大切なブログ友達の友人(メキシコ在住)の方から、
温かいメッセージが贈られてきました。

これは、震災を受けた方に向けての写真付きのメッセージです。

被災された多くの方のために、
朝日が上るのをを待って、ご夫婦二人で写真を撮られたようです。


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ハートの形が、朝日を包んで、
その二人がそれぞれ、人という形をしています。

人と人とが手を取り合って心が一つになった時、希望が見えてくる。
私はそんな思いを受け取りました。


そして、メキシコからのメッセージ・・・。


「地震で
 大切な大切な家族を失った人
 自分の命よりも大切な愛しいパートナーを失った人
 なんでも話せた心の友を失った人
 会社のよき相談相手の上司、
 だらしないけど頼りになった部下
 そして戦友のような同僚を失った人
 家族のように思っていた犬や猫や動物たちを失った人
 ご近所のいつも可愛がっていた犬や猫を失った人

 自分の命よりも
 大切だと思っていた
 そんな
 そんな
 あなたの
 大切な大切な人を失った方

 それから
 懐かしい想い出がたっくさんつまった
 愛着のある家や学校、職場
 それらを
 失ってしまった方
 

 最後に

 この震災でお亡くなりになった
 すべてのみなさまへ
 心よりご冥福を申し上げます。


 みんなが
 朝目覚めたとき
 決して絶望に襲われませんように・・
 いつも祈ってます。

 今日も
 地球のどの場所にも
 公平に朝日は昇ります!


 朝日のエネルギーは偉大です!

 だから
 夜が明けるのを
 歯を食いしばって
 待ちましょう

 頑張っている人にがんばってっていうのは
 ほんとにつらいけど
 わたしたちは日本にいないので
 このメーセージを友達の「ちさ」に託します。

 わたしたちも
 そして
 メキシコのみんなも
 日本のことが
 いつも心の中にあることを忘れないでください」



温かいメッセージ、思い! 日本人しかと受け取りました。

世界の人々の心が一つとなる時、
私たちは、想像もしない大きな勇気と力を得ていくかもしれません。
本当に感謝、感謝です。


また、

震災後、しばらく連絡を取っていなかった
大学時代の先輩から、メールをいただきました。

その先輩は、
私が死んでいるのではないかと本気で心配してくれていました。

その一部です。


「バカヤロ…さっさと言えよ…いろいろと大変だったな…

 俺もオマエと話したいことがあるよ…いろいろと…

 どれだけ掛かるか判らないけど、穏やかな日常が戻ったら
 今度は逢ってゆっくり飲みながらでも話そうな(笑)…

 まぁ何よりも今の事態が好転しないとな…。

 不謹慎な言い方だけど、このピンチを楽しめ!!
 ちっぽけな自分一人の力ではどうにもならないことばかりだろうけど…、
 周りの悲惨さにうちひしがれても…
 そんなときテメェでテメェに酔いしれれば気合いが入る…

 俺がやらねば誰がやる!って(笑)そういうの得意だろ!!(爆)

 頑張れよ」


先輩・・・、無許可でメール載せてしまってすみません(汗)



そして、冒頭にご紹介したのが、
私のブログ記事を紹介して下さったブロガーの一人、
ミリわんさんの力強い言葉です!


その他にも多くの方に、記事を紹介いただき、
ありがとうございました。
また、応援メールやコメントを送っていただいた方々、
本当にありがとうございます(^^)



被災地では、だんだんとニーズや課題、問題が変化してきています。

次回は、私が直に見て聞いてきた被災地の現状と課題について、
私なりの視点でお話しできればと思っています。

「東日本大震災が起こったあの日」のお話もとりあえず、
次回で最終回とします。

今後は、振り返るのではなく、
前に行くために、私たちは進んでいくべきでしょう。




足元を見ながら遠くを見据えて、
三歩進んで二歩下がりつつも、
希望を描き、笑顔を携えながら行進しましょう!

知られざる果てしなき未知の未来に向かって。



最後に・・・、枝野官房長官からどうぞ。







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東日本大震災が起こったあの日 【7】 


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「 命の重さを知るには、大きすぎる代償でした。
  しかし、
  苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、
  助け合って生きていくことが、
  これからの私たちの使命です。       」


               宮城県気仙沼市階上中学校答辞より



上の写真は、私が数日前に撮影したものです。

また、以下にお見せする写真の全ては、
私が撮影したものです。

今回は、私が直接見てきた、
東日本大震災(東北関東大震災)の姿をお伝えしていきます。



ところが、

私は悩みました。

最も被害の大きい地域に赴き、
命が助かった自分が、徘徊したり、写真を撮ったり、
それが亡くなった方や家を失った方に対して
失礼にならないかと・・・

ですが、

この世界最悪とも言われる大震災の爪痕を直に見て、
日本人として決して忘れないように、
生きている自分が、直接見ておかなければならないと思いました。

子孫や後世に伝えられる生きている自分が、
この惨事を、いま自分の目で見ておかなければならない。


そういった思いの方が強かったのです。

私はジャーナリストではありませんが、
言葉だけではなく、画像という形で、
見てきたこと感じたことも綴っていきたいと思います。


私の住んでいる自宅から3キロほど移動すると、
このような風景が広がっています。
車で数分ほどの距離になります。


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行ってみて、まず驚いたのがこの風景、惨事・・・

直に見ると、その悲惨な状況に言葉も出ません。
筆舌に表しがたい・・・とはこのことです。

そして驚いたのが、海から数キロ離れているにもかかわらず、
潮の香りが一面を覆っていました。

海の香りがするのです。

しかし、いい香りではありませんでした。
なにか、くすんだような、錆びた濁った匂いが辺りに立ち込めます。

田んぼから、道路から、敷地まで全てが海水に犯された証拠でした。

少し行くと・・・

道路が遮られています。


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数キロ離れた、防風林の松かもしれません。
どこから流れてきたのか、
長い路上に無数に松の大木が横たわっています。

ふと、田んぼの方に目を向けると、
どこから来たのか・・・その田んぼの真ん中に車があります。


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この車も、道路に不自然に横たわっています・・・。


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少し進むと、車がいたるところに横たわっています。

車上荒らしでしょうか。それとも津波の衝撃でゆがんだのか、
ドアが不自然に曲がっています。


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また、いくつかの車には、
後からガソリンが抜き取られた(?)形跡が見てとれます。


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頑丈な鉄骨が、無残に折れ曲がっています。


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少し進んでいくと、海に近付いていきます。
海の近くの住宅街だった場所です。

そこには何も残っていません・・・。

何があったのかすら分かりません。


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ものすごい、地震と津波の威力です。
緊急援助隊として現地で働いている知人が、
「原子爆弾が落ちたのと同じ・・・」
と言っていましたが、そうとしか表現できない景色が広がります。

人の声も、車の音もなく、異常に静かです。
たまに聞こえてくる、ヘリコプターの推進音だけが、
妙に殺伐として響きます。


右隅に、玄関のタイルが見えます↓
その土地の高さから、えぐられるように地面が沈下(?)しています。
地形が全く変わっています。

CIMG3614_convert_20110401235754.jpg


家の基礎ごと移動してしまっています↓
信じられない津波の力です。

CIMG3616_convert_20110402000628.jpg



さらに進むと、浜辺につきました。

何もなかったように・・・、静かな風景です。

寄せては返す波の音だけが、静かに時を刻んでいます。


CIMG3609_convert_20110402001316.jpg


しかし・・・

後ろを振り返ると、

浜辺近くの鉄製の柵が、全て陸の方に倒れ掛かっています。
津波の力の凄さを物語っていました・・・。


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そのすぐ側には防風林があります。

直径30センチもあろうかという松が、
引き裂かれたように折れています。
津波の信じられない威力が伝わってきます。

どの防風林の松も、陸側に折れて倒れこんでいます。

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海にほど近い、美しかった川は一変し、
多くの瓦礫に覆われていました。

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私は、実際に現地に行き、
本当に起こった現実を受け止めることができました。

願わくば、この出来事がもう二度と起こることのないように祈るとともに、
この出来事は、規模の大小はあれども、
日本の沿岸どこにでも、起こり得る現実なのだと、深く考えさせられました。


仙台藩初代藩主、伊達政宗公は、この出来事を高いところから、
どう感じて、どんな思いで見ているのでしょうか・・・。

そんなことも感じてしまいます。



今回の東日本大震災は、

私たちに大切なものを気付かせてくれました。
また、この地球上で生きていくための教訓を得ました。

しかし、

その代償は、あまりにも大きく過酷なものです。

今も福島第一原発の状況は、予断を許しませんし、
多くの行方不明者は未だにその所在は分かっていません。

そして、避難所生活は長引き、
あまりにも多くの人々の雇用、医療、生活、メンタルの問題を
抱えたまま時が流れています。

多くの人々からの、物資、金銭、労働、心のありがたい援助をいただきながら、
時間はかかっても、復興に向けて歩むしかありません。

阪神淡路大震災をはじめ、多くの災害を乗り越え、たくましく生き、
東北に多くのありがたいお気持ちを伝えてくれる全国、世界中の人々。
痛みを共有し、共に涙を流してくれる多くの人々。
痛みを行動力に変え、多くの愛とパワーを送ってくれる人々。

本当にありがたく思っています。



気仙沼市のある中学生の答辞です。






私たちは、この出来事を決して忘れない。
私たちは、この出来事を通して初めてわかったこと、
初めて感じた多くのことを忘れない。



今後は、生かされている感謝を胸に、笑顔を取り戻し、
本当に苦境の中にある多くの方々と共に、
復興というよりは、開拓する志を持って進んでいければと思っています。





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生きている不思議 死んでいく不思議 


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「 生きている不思議 死んでいく不思議
  花も風も街も みんなおなじ

  呼んでいる 胸のどこか奥で
  いつも何度でも 夢を描こう

  かなしみの数を 言い尽すより
  同じくちびるで そっとうたおう

  閉じていく想い出の そのなかにいつも
  忘れたくない ささやきを聞く
  こなごなに砕かれた 鏡の上にも
  新しい景色が 映される

  はじまりの朝の 静かな窓
  ゼロになるからだ みたされてゆけ

  海の彼方には もう探さない
  輝くものは いつもここに
  わたしのなかに 見つけられたから  」


          映画『千と千尋の神隠し』
          主題歌『いつも何度でも』 歌:木村弓 より





前回で、この東日本大震災に関する記事は
最後にしようと思っていたのですが、
私の職場の後輩の事を、最後にお話ししておきたいと思います。

私が体験した、
東日本大震災の記事を最初からお読みになりたい方は、
こちらからどうぞ↓

『東日本大震災が起こったあの日』 


今回お話しする女性は、
以前お話した女性職員とは違った人物です。


私の職場で働いている、就職して2年目の若い女性職員がいます。

彼女は私と同じ部署で働いていて、
持ち前の明るさと無邪気で一途な心を持った、
将来有望な若手職員です。

宮城県の南三陸町、志津川という所の出身で、

仙台の大学の福祉科を卒業し、
私の勤め先である福祉施設に去年入社しました。

しかし、

平成23年、3月11日14時46分。東日本を巨大地震が襲いました。

彼女の出身地である南三陸町はリアス式海岸の、とある港町で、
今回、地震と津波の甚大な被害を受けたところです。


私の職場である福祉施設は震災直後、
ライフラインが遮断され、
外部からの援助も全くない状態で、危機的な状況に追い込まれました。

全ての職員は、それぞれの家庭で問題を抱えながら、
できる限りの精神力と知恵を振り絞って、
難局を無事に乗り越えられました。

しかし、

後輩の彼女の御両親は震災当時、その南三陸町にいました。

一週間経っても、連絡が付きません。

携帯電話、固定電話が通じるようになっても、
連絡が付かないのです。

テレビや新聞、ラジオでは、
南三陸町の壊滅的な被害を次々と報道していきます。

死者の数も毎日増えていきました。

それでも、彼女はご両親と連絡が取れません。

それでも彼女は、目の前の高齢者のために、
その苦難な生活を支える為に、休むことなく出勤しました。

ある日、職場にいる彼女の両目が赤く充血していることに気付きました。

ほとんど眠れないまま、
あるいは、泣き明かして出勤してきたのかもしれません。

それでも彼女は昼も夜も働き続けました。

私は、そんな彼女が不憫で健気でどうしようもありませんでした。


そんなある日、

彼女の携帯電話に見たこともない番号の着信がかかってきていました。

彼女は、日常的に、怪しく知らない番号にはかけ直しません。

でも・・・・

その時、もしかしたら・・・と思ったそうです。


そうです。

避難所からの固定電話の着信だったのです。

彼女の母親からの避難所からの連絡だったのです!


彼女は、そのことを私に知らせてくれました。
満面の笑みを添えて。

彼女のご両親は、震災直後、
すぐに高台にある地元の高校に速やかに避難していました。

南三陸町志津川の避難所である高校は非常に高台にあり、
その難を逃れることができました。

■参考記事→ 震災直後の志津川高校「校庭のSOSが見える」


高齢者や体の不自由な方で援助がなかった方、
津波のことを過小評価し避難しなかった方、
避難はしたものの、
引き返して大切なものを家に取りに行ってしまった方・・・

そういった人々は、津波に飲まれ、亡くなってしまったそうです。

それは、あまりに過酷なギリギリの運命の分かれ道だったそうです。


その後、電話の通信状態が非常に悪く、
ろくに話もできない状態が続いたそうですが、
彼女の母だけでなく、父も無事だったことがわかりました。


その後、彼女と二人で施設の夜勤をした時・・・、

なんと、私の目の前で、
朝5時前に彼女の携帯に電話がかかってきました。
彼女の母親からでした。

「あ・・・、この番号・・・・・え~! お母さんお母さん-!」

と彼女は飛び上がって喜んでいました。

彼女が御両親ときちんと会話できたのは、この時が初めてでした。

南三陸町は集団避難を決め、
彼女のご両親は、仮設住宅ではなく、
娘である彼女のいる一人暮らし用のアパートに引っ越してくることに、
とりあえず決めたそうです。

私も良かった・・・と、とてもうれしくなりました。



ですが、

一方で、多くの亡くなった方がいる。

二度と帰ってこない懐かしい街がある。


生きているとは、死んでいくとは・・・

あまりに突然訪れた、多くの死との直面。
同時に、生き残って再開を喜ぶ人々。

私は混乱していました。


こんなに簡単に、人が次々死んでゆく。

ほんの紙一重で、人は生き残ってゆく。




不思議にその時・・・、

大好きなこの曲が自然と心に浮かび上がって来ました。





■歌詞全文はこちらです→ 木村弓『いつも何度でも』の歌詞


歌詞を口ずさんで、ハッとしました・・・


その歌詞が・・・、

この震災を事前に知っていて作られているような歌詞に
聞こえてしょうがないのです。


多くの死者を出してしまった、大自然のある出来事。

今も続いている天災と人災よる震災被害。



小さくても、
些細なことでも、
できる力を尽くし、

みんな、手を取り合っていきましょう。

巡り巡って、

亡くなった方にも、
生きている方にも、
これから生まれ来るものにも、

暖かい日の当たる、幸がありますように・・・。






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カテゴリ: 悲しみの数を・・・

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【お知らせ】祈りとこれからのために~キャンドルナイト~ 


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「 目的は3つ

  ☆ 今回の地震で亡くなられた方達への追悼の気持ち
  ☆ 計画停電をなんとかなくしたい、
    苦しんでいる人たちの気持ちを分かち合う
  ☆ 原発について考えていく
    (必ずしも廃止論ではなく)         」 



 ■バナー、記事はこちらです↓
 「はっぱの笑子らいふ(はっぱのえこらいふ)」様ブログ より



現在、東日本大震災の問題に対処し、
様々なところで、前向きで勇気ある取り組みがされていますが、

『はっぱの笑子らいふ(はっぱのえこらいふ)』の管理人、
「葉っぱ大好き」さんが、震災後の日本のために、
ある試みと努力をされています。

当ブログでも、
そのことについて皆さんに賛同していただきたく、
記事にさせていただいた次第です。


詳細はこちらです。
クリックすると、ブログ記事に飛びます↓
               

心ひとつに キャンドルナイト



4月11日は、震災があったちょうど、一か月後となる日です。

その試みは、そんなに難しいことではありません。
皆さんにもできることです。

そして、

多くのことをあえて思いだし、
多くの問題を考え直し、
その上で進みだす出すための心の向きを
定めて行きたいと思います。

そして、長く続けていくことに意味があるのです。

時間がありませんが、
どうか、皆さんの多くの賛同をお願いいたします。


なにとぞ、よろしくお願いいたします。




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カテゴリ: キャンドルナイトの試み

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今度は僕たちが恩返しをする番 


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「 東北の皆さんと一緒に戦っている気持ちが
               打球に乗ったんだ 」


          東北楽天ゴールデンイーグルス 嶋基宏捕手 




東日本大震災直後、
現地では不安と絶望が多くの人々を包み込んでいました。

食べ物がない。
明かりもない。
暖房もない。

情報も少なく、家族が今生きているのかすらわからない。
会いに行きたくても、交通機関がストップし、
また、車を動かすガソリンもない。

そういった、状況の中、
東北をはじめとして、多くの被災地では、
不安と悲しみの中、この一カ月を過ごしてきました。

そこには、無数の悲劇や出来事がありました。

ですが、
この一カ月の間、一人一人に何ができるのかを考え、
多くの方々が、自分にできることを少しずつ行動に移していきました。


その行動も様々で、

中には、自分の行っていることはこれでいいのだろか、
自分が行っていることは正しいのだろうか、
と、自問自答する方も多くいました。

さらには、そのとった行動に対して、

「売名行為じゃないのか」
「そんなの偽善じゃないのか」
「独りよがりの行動だ」

と、意見する者もいたようです。

ですが、
そういった批判をする人に限って、
何の行動もしていなかったり、
安全なところで、声だけ出していたりするものです。

やらないで失敗するより、やって失敗しましょう。
やらないで偽善だと批判するのではなく、
堂々と偽善を実行しましょう。


周りから、どう思われたっていいのです。


とても小さくても、
少し的外れでも、
心が動いた時、
その情熱や思いは行動に移して初めて結果が生まれます。




自分のとっている行動に自問自答しながらも、
自分のできることを、情熱に乗せ懸命に活躍している人たちがいます。

高校野球、プロ野球の選手たちです。


楽天イーグルスの嶋基宏捕手は、
開幕前に大きな心の迷いがあったそうです。

「被災地の仙台が大変な時に、
 自分たちが野球なんかしていていいのだろうか」


ですが、嶋選手をはじめとして、
楽天イーグルスの選手たちは行動に移していきました。

選手のメンバーを複数のグループに分け、
被災地の避難所を中心に、次々と訪問。
多くの避難所では、

「がんばってください!」
「応援しているよ!」
「東北のためにも、絶対優勝してください」


そういった声を次々と受け止め、

嶋選手は、

「逆に勇気をもらった。今度は僕らが恩返しをする番。」

と目を腫らして決意しました。


そして、開幕戦。


多くの人々の気持ちを乗せ、どうしても負けられない一戦。

嶋選手は、自分の失策で相手に先取点を許してしまいます。
打席に立っても、二打席凡退。

しかし、

同点で迎えた7回、2アウトで1,3塁にランナーを置き、
最大のチャンスが巡ってきます。

嶋選手は、このチャンスで、
「迷いは捨てよう」と、直球に的を絞ります。

高めのストレートを全力で振りぬくと・・・、

見事、劇的な決勝の3ランホームラン。

その時、嶋選手の心には、
訪問した宮城県の瓦礫の山となった街や、
苦難にある多くの人々の姿が蘇ってきたに違いありません。

プロ通算で6本塁打しか放っていない嶋選手が、
負けられない一戦で、劇的な力を見せてくれました。

被災地でも、多くの避難所で試合を見ていたファンから、
大歓声が起こりました。



私たち一人一人にできることは、
人それぞれ違います。

自分で自分を評価し、叱咤激励しながら、
継続して、自信を持って行動していきたいと思います。





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カテゴリ: 楽天イーグルス 嶋基宏

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願って、私は歌を歌っています。 






「 人間は、忘れることによって、
   同じ過ちを繰り返してしまいます。
    悲劇を忘れないでください。
     同じ過ちを繰り返さないでください。 
      そう願って、私は歌を歌っています 」


                     ナターシャ・グジー


■歌詞全文はこちらです→『いつも何度でも』の歌詞

■ナターシャ・グジー:
1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所爆発事故により被曝、
キエフに避難する。
事故で被災した少年少女を中心に結成された、
民族音楽団「チェルボナ・カリーナ」赤いカリーナ)のメンバーとして、
1996年から来日し、全国で救援コンサートを行う。
透き通った歌声と魂の響きは、多くの日本人の心に響いた。
結婚しており、夫は日本人。




今回は、私がお話しすることは、
私の個人的な意見です。

多くの考え方、意見があって、
お互いの様々な個々の思いや意見を理解しようとして初めて、
人類は人の生活や未来や子孫のために後悔することのない
進んでいく方向を定めていけるように思います。
また、そうあるべきだと思います。

あなたも、この国難、世界人類が立たされた
大切なことを考え直していかなくてはならないこの機会に、
進んでいくために、あえて振り返り、
多くの経験者、識者、先人たちの言葉に耳を澄ませ、
後悔しない人類、地球の未来のために、
自分の心に問いかけてみてください。



日本は、世界で唯一の被爆国です。

ですが、世界第3位の原発大国です。


この一見矛盾するような日本の現在の姿を作ったのは、
戦後、原発の平和利用を推進していこうとした
政府の方針が原動力となっています。

二酸化炭素を出すことなく、
膨大なエネルギーを生み出すことができる原子力発電は、
国内に資源の少ない日本国にとって、理想的な発電システム、
とされてきました。

■日本の原発所在地→日本の原子力発電所地図


しかし、二酸化炭素を生み出さない代わりに、
現在、膨大な放射能を生み出し、
日本の大地と海洋を汚染し続けています。



当然のことながら、
海は、世界の国と繋がっており、
この事態は一国の問題に留まらず、人類の問題であり、
今後、どの国にも起こり得る可能性を秘めた
恐るべき問題と捉えていかなくてはなりません。


こと日本の原発の存在は以前から、
世界の専門家、保険会社、国家から、最も危険視されてきました。


理由の一つは、世界でも1、2位を争う地震大国、日本の、しかも沿岸部に、
これだけ多くの原発が集中しているからです。

恐ろしいことに、
活断層の上に建設されている原発もいくつか存在しています。

さらに、
今回の東日本大震災のことでもお分かりの通り、
想定外の津波がきたときにはなすすべがありません。

非常用の電源を複数備え、万全だったはずの福島第一原発も、
現状のような緊迫した、ある意味最悪の事態を迎えています。

そして、

東京電力の原発のデータ改ざん問題でも明らかのように、
いくつか内部告発があり、その真偽は明確ではありませんが、
原発の開発、建設関係者からの、
欠陥を指摘した内部告発もいくつか表に出ています。


この状況は、日本全国に大変な事態を起こしうる可能性を秘めています。

たとえば、

静岡県にある、浜岡原発が福島原発同様に東海地震によって被災し、
津波のダメージを受け、東海、関東地域に放射能が拡散してしまったら・・・。
最悪の場合、約3000万人が避難をしなくてはならないシュミレーションも、
専門家が算出しています。

3000万人もの避難者はどこに行けばいいのでしょうか・・・。

また、それによって多くの人命、
首都機能、地価、株価、経済機能が全て失われ、
想像もつかない大混乱、被害が想定されています。



では、なぜこの危険な原子力発電所をすぐに廃止できないのか。


それにはいくつか問題があるようですが、

大きな問題に、ご存じエネルギー事情があります。

電力の3割程のエネルギーを生み出している、
原子力発電は、欠かすことのできない発電媒体となっているからです。


様々な代替エネルギーが、専門家によって提案されてきていますが、
今後、真剣に議論されるべき問題でしょう。
そして、答えを出し、動き出さなくてはなりません。


私は、個人的にこんなデータもよく見ています↓

日本全国、県別の放射能濃度一覧


福島県は非常に高い値ですが、
私の住む仙台市も、微妙に高めの数値を示しています。

これは、夢ではありません。日本に起こっている現実です。
そして、日本中どこでも起こり得る現実なのです。


私の父は、福島県出身なのですが、
今回の悲劇には、大変心を痛めているようです。



人が生み出したものに、完全なものはありません。
ゆえに当然そこには、絶対安全なことも存在しません。


私たちは、この地球に生きていく上で、
大きな転換点に差し掛かっています。

今ここで、日本人として、
子孫にこの世界をバトンタッチしていく人間として、解決策を見出し、
より正しい答えを出していかなくてはならないのではないでしょうか。


10年後、100年後・・・、

皆が笑顔で過ごしていくために。

子供たちが、笑顔で駆けていく未来のために。



今回、この動画をご紹介くださったのは、
私のブログ友達の管理人、愛希穂さんです。
考えさせられる、愛情深い記事を書かれています。ぜひ、ご訪問ください。

愛希穂さんのブログ→『きっと誰かに愛されている』




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カテゴリ: ナターシャ・グジー

テーマ: 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~ - ジャンル: その他

あなたは日本人ですか 


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「 福島県から来たことを隠しますか 」





今回の東日本大震災で、日本人、世界中の人々の
暖かい具体的な支援、力強い心の支援が被災地に集まってきています。

世界の報道でも、
日本人の冷静さや行動、文化、
国民性の素晴らしさが伝えられていますが・・・、

ここに来て、おかしな事も起こり始めています。


福島第一原子力発電所の件に関しての、
その後の悲しい出来事です。

このような記事がありました。

ご紹介いたします↓



東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故で、福島県から県外へ避難してきた住民らが、心ない仕打ちを受けるケースが相次いでいる。

 長期にわたる避難生活を強いられている被災者が「人への風評被害」にも苦しめられる事態に、識者は「科学的に全く根拠のない風評被害だ」と冷静な対応を求めている。

 「福島県から来たことを隠しますか」。福島県南相馬市の男子児童は千葉県内の小学校への転入手続きで、教師からこう聞かれた。母親は意味がよく分からずに「隠さなくていい」と答えた。男児の席は教卓の前で左右は空席になっていた。

 日本弁護士連合会によると、母親は弁護士に相談し、「原発事故による一時転入なので学校に改善を求めると子供が居づらくなる」と話したという。

 南相馬市から群馬県へ避難した小学生の女子児童は、「福島県から来た」とクラスの子供から避けられたり、陰口を言われたりして不登校になった。

 千葉県船橋市教委は、南相馬市から来た小学生の兄弟が嫌がらせを受けたとする連絡があり、「子供たちに避難者の気持ちを考えるよう指導するように」と小中学校に通知を出した。

 福島県いわき市の運送会社は、「放射能の問題があるので、いわきナンバーで来ないでほしい」という取引先の依頼を断れず、東京都や埼玉県でトラックを借り、荷物を積み替えている。社長(61)は「取引先から『いわき』ナンバーで来るなと言われたら従わざるを得ない。何とも理不尽だ」とため息をつく。

 福島県田村市に工場を持つ埼玉県の会社は、福島ナンバーの車に乗った社員が首都圏のガソリンスタンドなどで利用を拒否され、埼玉県内ナンバーを使うよう指示した。

                      読売新聞 4月21日記事 より



この記事を読むと、なんとも言えない
やりきれない悲しみがこみ上げてきます。

私たちは、心の向きを間違えないことと、
正しい知識と冷静な判断を持たなければならないのです。




まず、

そもそも放射能はインフルエンザやノロウィルス等とは異なり、
人から人へ感染するものではないということ。


そして、

その人や車体から放射能が検出されたわけではないこと。

さらに、

その地域から避難してきた、子供たちをはじめ住民の皆さんには、
今回の人災に関して責任などはなく、むしろ最大の被害者であるということ。


また、

全く放射能の影響がない地域の方も、
同様の風評被害を受けていること。


最後に、

原発の廃止、存続の議論がなされる以前に、

福島県に原発があること、そのお陰で、
首都圏をはじめ、多くの人々が長年恩恵を受け続けてきたこと。



・・・・・。


「あなたは独りじゃない」
「世界は一つだよ」
「離れていても、いつも一緒だよ」



などと、言っている私たち日本人ですが、


全く逆のことを行っていて、それに気付かない人間がいる。
それを仕方ないと思っている日本人がいる。
見て見ないふりをしている人がいる。
恩を仇で返すような者がいる。



もしかしたら、こういった行動をしているのは、
ほんの一部の日本人かもしれません。

ですが、

このことを、私たち日本人の誇りと真心にもう一度問いかけて、
行動していきたいのです。


別に、遠くから被災地の避難所に行って、
食べ物や衣服、援助物資を持っていかなくても、
義援金を送ることができなくても、

せめて、

とても困って、とても悲しくて、
どうしようもなくて体一つで逃げてきた同じ日本人を、

「こっちへ来るな。迷惑だ。」と追い返すような、
そのような仕打ちをすることだけは、やめていただきたいのです。




確かに、受け入れる側の周辺地域には、
デリケートな風評の影響、問題があるのかもしれません。

ですが、

基本的には、無知や全く科学的根拠のない恐怖心から、
間違った行動、対応をしてしまっているケースがほとんどです。

その問題に対応するために、

国、自治体、教育機関、マスコミ、子供の親など、
全てが動きださなければならないと思っています。



そして、もうひとつ、
記事を引用させていただきます↓


 福島県楢葉町の蛭田(ひるた)牧場。20キロ圏外のいわき市に避難している経営者の蛭田博章さん(42)は21日、約130頭の牛たちに最後の餌を与えた。強制力のない「避難指示」の段階では、3日に1回のペースで餌やりのため牧場に入っていたが、22日午前0時以降は不可能になる。蛭田さんは「何もしてやれず、ごめん」と牛たちにわびた。

 この日、蛭田さんが干し草を積んだトラックで到着すると、エンジン音を聞いた牛舎からは一斉に鳴き声が起きた。まず飲み水を与え、次に干し草を一列に並べると牛たちは我先にと食べ始めた。与えたのは1日分。牛が飲まず食わずで生きられるのは約1カ月が限度という。

 子牛の牛舎を見ると生後3カ月の雌牛が栄養不足で死んでおり、別の1頭が絶えそうな息で横たわっていた。蛭田さんは重機で掘った穴に死んだ子牛を埋め、瀕死(ひんし)の子牛の背中をずっと、なでた。「ごめんな、ごめんな」。涙が止まらなかった。

 立ち入りが禁止される今回の事態を前に、牛舎から牛を解き放とうと何度も悩んだが、近所迷惑になると考え、思いとどまった。最後の世話を終えた蛭田さんは「一頭でも生かしてやりたかったけど、もう無理みたいです。次に来るときは野垂れ死にしている牛たちを見るのでしょう。つらいです」。それ以上、言葉が続かなかった。

                【袴田貴行】 毎日新聞 4月21日記事より



人は何もできず、人が引き起こした人災で、
亡くなっていく罪のない多くの動物たちの命・・・

福島県の浜通りの方々の悲しみ、苦悩は留まることがありません。


まとまらない内容になってしまい、
また、悲しい文面となってしまいました。
申し訳ありません。


もう一度、想像もつかない現地の人々の困難を考えてみませんか。
同じ日本人として、自分に置き換えて、問いかけてみませんか。






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